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タチウオとアジをねらいに
いざ

GO!!!(^^)

三人旅です!

北北西の風3m/s~4m/s
波1mのち0.5m

最低気温17°C

11月に入って
初めての釣行ですが

そろそろシーズンも
終盤を迎え

釣果は
厳しくなってきそうです!

が、

愉快に

楽しんできたいと

思います!!!(^^)(^^)V

汪兆銘

アップロードファイル 1764-1.jpg

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神戸 22℃ 19℃

イロハのこととか
身辺雑記を
今日は少し離れたところに

なぜか
頭が働きます・・・・(^^)

汪兆銘出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

汪兆銘(汪精衛)

南京国民政府主席時代の汪兆銘
プロフィール
出生: 1883年5月4日
(清光緒9年3月28日)
死去: 1944年(民国33年)11月10日
日本国愛知県名古屋市
出身地: 清国広東省広州府三水県
職業: 政治家・革命家
各種表記
繁体字: 汪兆銘(汪精衛)
簡体字: 汪兆铭(汪精卫)
ピン音: Wāng Zhàomíng (Wāng Jīngwèi) 
通用ピン音: Wang Jhàomíng
注音符号: ㄨㄤ ㄓㄠˋ ㄇ|ㄥˊ
注音二式: Wāng Jàumíng
和名表記: おう ちょうめい
発音転記: ワン ヂャオミン (ワン ジンウェイ)
ラテン字: Wang Chao-ming (Wang Ching-wei)

汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)[1]。知日派として知られた。原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興県

・・・・・
南京政府成立 :日中戦争の勃発に伴い、蒋介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪兆銘の擁立を画策した。

汪兆銘は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立した。汪は自らの政府を国民党の正統政府であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称したが、連合国側からの承認は得られなかった。また、日本の同盟国だったドイツは、蒋介石政府軍事顧問だったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンの意見を採用し、日中戦争では日本が敗北すると見ていたため、承認を躊躇し、承認したのは1941年7月になってからだった[1]。

参戦と「主権回復」 [編集]1943年1月9日、独立政府としての実力を整えた汪兆銘政権は米英に対して宣戦を布告し、同時に日本との間に日本が中国で保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃に関する協定を締結した[2][3]。日本側は両国の提携拡大によって汪兆銘政権による中国の「物心両面の総動員」が日本の戦力整備に寄与することを期待した[2]。さらにイタリア政府は1月14日に自国が保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明し[3]、フランスのヴィシー政府は翌2月23日に自国が保持していた4ヵ所の専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明した[3]。これにより辛亥革命以来、中国の開放に不可欠な要件とされた不平等条約の中核である「治外法権の撤廃」と「租界の回収」が実現した。日本の『朝日新聞』は「中国の実質的な自主独立が達成された」と報じた[2]。

消滅 [編集]汪兆銘政府は、外交・内政において日本の介入を受け、日本政府が第二次世界大戦における日本軍の戦況悪化と共に重慶政府との和平を目指すようになり、さらには民衆の支持も得られなかったことから孤立し、1944年に汪兆銘が病死すると更に求心力を低下させた。同政権は1945年の日本の敗戦と共に消滅した。今日では汪兆銘政権を傀儡政府と見なすのが一般的である
・・・・

なぜ「汪兆銘」に
こころがひっかかるのか
わかりませんが・・・・(^^;)

杉森久英「人我を漢奸と呼ぶ」を一昨日
読了し(伝記)

今また
上坂冬子「我は苦難の道を行く」汪兆銘の真実 上巻

読み始めました・・・・(@@)