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暦の上では

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神戸 8℃ 4℃

暦の上では
寒明けて、すでに
10日あまり過ぎましたが

なかなか・・・春の実感からは
程遠いところに
居りますバッテン!(^^;)

ここ数年の
2月15日の気温を
調べて見ました!(^^)

我がブログの
表題も一緒に書き出しました!(^^)

2012=春の便り  10℃ 5℃
2011=積雪5cm  8℃ 2℃
2010=今日の予定  8℃ 6℃
2009=つかずはなれず  14℃ 8℃
2008=久しぶりの楽焼  記述なし

・・・・このような具合で(^^;)

2009年を除いては
まずまず

本日の最高最低気温も
例年並み・・・・(^^;)

とりたてて
異常はない・・・と言えるようですが(^^;)

しかし
感覚的には

いつまで続く・・・この寒さ
かな・・・です!!(^^;)(^^)

「いつまでも 風の尖りて 春寒し」 桃杏

・・・・・・

「ねておきて 大欠伸して 猫の恋」 一茶

「恋」は、「来い」ともとれる。言い換えれば、果報は寝て待つよ・・・と言う意味か?(^^)(^^)

この句の制作年代は
彼の何歳の時のものか
詳しくはわかりませんが

一茶自体・・・どのような人だったのか
いままで・・・

あまり興味が
なかったので
素通りして来ましたが

64歳半ばで死去・・・というところで
引っかかるものを覚えましたので

ウィキペディアの記述・・・
略歴のところを

そっくり
転載してきました!(^^;)(^^)

以下の文章です!(@@)

この方も
なかなか大変な人生だったようで・・・・(@@;)

でも、したたかなところと
哀しみをユーモアに変える姿勢には
大拍手です!!!(^^)(^^)

宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受ける。3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳の時、江戸へ奉公に出る。

25歳のとき小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶ。[3]

寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いた「父の終焉日記」は、私小説の先駆けと言われる。一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続けた。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるも老齢の夫に嫌気がさしたのか半年で離婚。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。

残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった[4]。

文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。