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今、図書館から借りてきている
本の中の一冊・・・
「ひょうご幕末維新列伝 一坂太郎 神戸新聞総合出版センター
数々の犠牲を伴う
幕末の騒乱の渦中に居た
ひょうごにかかわりのあった
あらゆる立場の人達の
「人物図鑑」的物語です!(^^)
その中で・・・・まだ最後まで
読みきっていませんが
ワタクシが特に惹きつけられたのは
「但馬聖人・池田草庵」と言う方でした!(^^)V
但馬の国養父郡宿南村の農家に生まれ
早くに両親を失い十一歳で広谷村のお寺に預けられる
十八歳の時、村に滞在中だった
京都の儒者相馬九方の講義を聴き感激!
翌年、寺を飛び出し
京都の九方の塾に入り雑用をこなしながら
勉学に励みたちまち頭角を現す
一年足らずで塾頭に!
その後、陽明学者の春日潜庵などと交流し
京都で塾を開いた
だが独学で何の権威門前も持たない
彼の生活は苦しく
このため
天保十四年五月、但馬に帰郷
郷土の人々に望まれ
八鹿村の立誠舎を借り、子弟の教育を始める
さらに弘化四年、彼の生誕地である
宿南村に私塾青峪書院(せいけい)を建てた
源氏山を背に、青山川のせせらぎを聞く高台に建てられた
塾舎は、宿舎と講堂をかねた木造茅葺二階建てだ
二階が門人で、一階六畳間が
草庵の居室だった
子弟が寝食を共にし
農作業もおこなう私塾のかたちで
彼が明治十一年、六十六歳で没するまで
この書院において全国三十カ国から集まってきた
六百七十三人(うち、但馬以外は約三百人)の若者達を
指導した
草庵の学問は幕府官学であった朱子学と
異端視された陽明学を融合させたもの
その根本理念は「独慎養心」である
彼が元からは
東京大学総長を十一年も務めた
浜尾新、京都府知事や北海道長官となった北垣国道、
横浜正金銀行(東京銀行の前身)を立て直した原六郎、
日本近代眼科の父と称される川本重次郎などがいる
・・・・
ここでワタクシがもっとも
惹かれたのがこの後のフレーズでした!!(^^)(^^)
草庵は秩序を重んじるあまり、変革を求め、
政治運動に身を投じるのを嫌った。
「ただ我輩にありては心を尽くして志を立て、黙々考究のほか
いたし方これ無しと存じ極めおり候・万々一、天下何らの変相生じ候とも、矢張りただ黙々講究」と
友人に書き送っている。
その言のとおり、
文久三年、近くで生野の変が起こったさいも、
静観に徹した・・・・・(^^)