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ちぬの海

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以下、司馬遼太郎さんの
文章です(^^)

大阪湾の南岸一帯の海のことは
八、九世紀までは、

「ちぬの海」とよばれていた。

八世紀半ばに成立した歌集に「万葉集」がある。国家が編纂した詞華集で、天皇から無名の庶民にいたるまでの歌が約四五○○首集められている。
 その巻第六に、

 血沼廻(ちぬみ)より 雨そ降り来る四極(しはつ、地名)の
白木郎(あま)網手綱乾せり(あみてつなほせ)濡れもあへむかも

血沼周(ちぬみ)の「み」は浦(ウラ・ウラミ)のことである。歌意は「ちぬの海の岸べから雨がふってきたぞ、四極(しみ)の浜で漁師が網や手綱を乾しているのをみたが、気の毒にあれが濡れてしまうだろうなあ」ということで、他人の労働へのいたわりがよくあらわれている。
 四極(しみ)というのは、古代の津のひとつらしい。磯歯津(しはつ)とも書く。いまは陸地になっているが、住吉区のどこかに存在した浜のことである。
 この四極のあたりには、漁師が多く住んでいた。四極だけでなく、淀川の河口にも大阪湾一円にもかれらがたくさん住んでいて、古代のことばでは「あま」とよばれていた。漢字としては、海人とか白水郎とかと書き、そのグループのことを海人部・海部(あまべ)などと書く。
 その漁の仕方は、網で魚をとらえるだけでなく、海にもぐってモリで魚を突き、貝をとり、また海藻をとるということをする。海藻をとるのは、それを焼いて塩をとるのが主たる目的であった。
「倭ノ水人、好クシ沈没シテ魚蛤ヲ捕フ」
 と、三世紀に編纂された中国の史書「魏志」の「倭人伝」に古代日本人の一つの特徴として書かれている。中国人は決して水にもぐることをしないから、この「沈没して」というあたりに、驚異がこめられているといっていい。
 古代の大阪湾は、漁場として偉大だった。古代から近世にいたるまで、沿岸漁業の漁業技術の蓄積と進歩を産んだ海であった。とくに古代、河内(大阪市郊外)や大和(奈良県)に所在した宮廷のために、彼らは魚たちや貝をとり、塩をつくった。このため淡路島をふくめて、宮廷の直轄の漁師ということになっていた。住吉大社も祭神は海と海底をつかさどる神であり、」かれら漁師たちが自分たちの神であるとして崇敬していた。
             (大阪の原形の一部からの抜粋)

(^^)
ここからがワタクシの文章です!

ワタクシたちが釣りのため
あちらこちらの漁港に行って
常に不思議に思っていたこと・・・・

それは大きな船も小さな船も
漁船のおしりに
なべて「住吉丸」と書かれていて

「あれ~~~???」
「ど~~~~なってんの?}
「どれもこれも住吉丸やなあ」

と言っていましたが
前掲の司馬遼太郎さんの文章で
その意味が氷解しました!

「神」を掲げて
漁の安全を祈願していたのですね!!!(^^)(^^)

おそまつさまでした・・・・(^^;)(^^)

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